ひどい就職難の時代だった。1952年秋。その人が受けた文芸春秋社は3人の採用枠に対し、入社希望の大学卒が約700人も押し掛けた。東大在学中はボート部に熱中し、成績は芳しくなかったが、なぜか通った。「成績不良だが、大化けするかもしれない者」として採用されたという。編集者としての人生を歩みだした。
後に文芸春秋編集長も務めた作家の半藤一利さんは、若き日の思い出を「文士の遺言」(講談社)の中で振り返っている。入社8日目。新米編集者の時、出会ったのが坂口安吾さん。出来上がっているはずの原稿が1枚も書いておらず、1週間、群馬県の坂口邸の同じ屋根の下で寝起きした。毎晩のように酒を飲みながら安吾さんの話を聞いた。「生涯にあれほど輝いた、値千金の春の夜はなかった」
歴史を知る上で、文献の行間を読む重要性。「事実」も大事だが、その先にある「真実」を追究すべきことを、この大作家から教えられた。安吾さんが名乗る「歴史探偵」の弟子入りを、この時に勝手に決めたという。
謙虚に歴史に向き合い、昭和史に新たな光を当て、「日本のいちばん長い日」など名著を数多く残した半藤さんが亡くなった。晩年は子どもたちに向け、絵本「焼けあとのちかい」も刊行した。東京大空襲を体験し、隅田川に飛び込んで九死に一生を得た半藤さん。戦火をやっとの思いで生き延びた世代としての体験が、「歴史探偵」の原点であったのかもしれない。(広)









