未来へ語り継ぐ「コイノボリ大火」100年 まちづくりに大きな影響、こいのぼり揚げない風習も

1921年5月1日に発生したコイノボリ大火(苫小牧市史より)

 1921(大正10)年に苫小牧町(当時)で発生した「コイノボリ大火」から、1日で100年を迎えた。苫小牧最大の火災事故となった大火後は、延焼の原因になったとされるこいのぼりが、しばらく掲げられなくなったとされるほど。100年たった今も語り継がれ、防火への教訓などを新たにしている。

 コイノボリ大火の詳細は諸説あり、今なお分からない点が多い。4月29日から市美術博物館は企画展を開いているが、担当する佐藤麻莉学芸員(32)は「いつからコイノボリ大火と呼ばれるようになったのか」と率直に疑問点を挙げる。

 40(昭和15)年発行の苫小牧町史、公設苫小牧消防組々頭を務めたこともある小保方卯市の手記などに、こいのぼりの記述が一切ないためだ。

 それが76(昭和51)年発行の市史で「コイノボリ大火」が公式記録となった。市史では「コイノボリに火がつき、火だるまとなって飛び、乾燥しきった柾(まさ)屋根に落ち次から次へと延焼」(原文ママ)とある。

 市勇払の会社役員山本紘之さん(42)は、大火の5年後に生まれた祖母の秀子さん(95)から聞いた話として「『こいのぼりを揚げてはいけない』という町の決まりがあった」と強調する。行政機関による「禁止」とも「自粛」とも伝わっているという。

 被災した義父から大火の話を聞いたという新明町の岡島邦子さん(82)も「5月が来るたび『こいのぼりは絶対に揚げちゃならない』というのが口癖だった」と振り返る。

 義父は大火当時三条通り沿いに居宅を構え、火事があった日は黒煙の中、リヤカーに家財道具を乗せて逃げ回ったという。邦子さんは「(こいのぼりは)家訓として揚げない。今でも守っている」と静かに話す。

 鎮火時刻にも諸説ある。市史は鎮火を午後5時50分と記録しているが、町史は同3時55分、小保方卯市の手記は同3時30分などとなっている。

 被害額を町史などは523万5000円とする一方、519万円とする資料も。佐藤学芸員は「さらに調べを進めることで、新しいことが分かるのでは」と述べた。

 町史資料諸統計表によると、火災が起きた21年の町歳入は54万8979円。町予算の少なくとも10倍近い被害をもたらしたことがうかがえる。

 一方で町史は大火を「特に町史の一時期を劃(画)し吾が苫小牧町が新なる姿態と理想を掲げて全道に雄飛せんとする契機であった」(原文ママ)と位置付ける。

 大火前は地番も取得順のとびとびで、区画割りも著しく不規則だったといい、大火は地番改正や行政経済機能の移転、上下水道の整備、消火消防への変換など、まちづくりに大きな影響を及ぼした。

 大火後の28(昭和3)年に開院した大町歯科加藤医院の3代目院長加藤清志さん(58)は2008年から毎年、敷地内にこいのぼりを掲げる。息子2人の成長を願って掲げており「歴史の主役は生きている私たち。いい思い出を子どもたちに残したい」と語る。

 ◇コイノボリ大火

 苫小牧市史下巻(1976年発行)によると、21年5月1日午後1時20分、苫小牧町三条通り6(現在の大町2)の長屋から出火。風速15メートルの北風にあおられ、火勢は「当時の繁華街だった本町、幸町、元町をあっという間に焼きつくし(中略)さらに海岸、北方に延び」(原文ママ)た。

 2時間半で大通り(現国道36号)沿いの商店、本町にあった町役場、郵便局、尋常小学校をはじめ、樽前山神社や苫小牧警察分署、拓殖銀行苫小牧派出所などを焼き尽くしたという。

 当時の町内全世帯3897戸、人口1万7285人のうち、被災したのは1007戸(全焼は998戸)、5350人。1人が死亡し、25人の負傷者を出した。町民の3割近くが被害を受けた。

 出火原因は「ストーブ煙突掃除不完全」。この時期に家々で掲げていたこいのぼりに火が燃え移り、延焼が広がったため「コイノボリ大火」の名が付いた。

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