考える

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 共生社会の実現を目標に掲げた東京パラリンピックが閉幕して3日。テレビからテーマ曲は消えても、競技者らの言葉が心の奥で響く。

 マラソンや徒競走、競泳などを除けば、初めて見る競技が多かった。障害を持つ人たちと自分の立つ位置との距離の大きさなのだろう。カメラが競技者の体や表情をテレビ画面に写し出す。「社会」が思いやりのつもりも含めて目をそらし、話題にすることを控えてきた障害の現実がそこに並んでいる。原因の説明は、ごく簡潔なものだ。病気、交通事故や労働災害など身の回りにあるものばかりだ。

 障害を持つ人たちのスポーツは昔、新聞の社会面で、不遇に立ち向かう物語として扱われることが多かった気がする。障害者が隠され、施設の多くは人里離れた場所に作られた時代のことだ。「なぜスポーツ面ではないんですか?」。記事の扱いに意見を言った後輩記者がいた。先輩記者の感傷的、定型的な記事や、その扱いに疑問を感じていたのだろう。目は怒っているようにも、軽蔑しているようにも見えた。今でも忘れない。

 競技者の言葉が重い。「大きくなれば手は伸びてくるものだと思った。しかし、弟が生まれた時、手はあった」。腕のひじから先が生まれつき欠けていた女子陸上選手がインタビューに答えていた。「考えること―でしょうね」。パラリンピックの意義を問われた水泳選手の答えだ。共生には、どんな課題があり何が必要か。考える。(水)

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