拷問は自らが科される苦痛より、守らねばならぬ者たちの絶望の泣き声がつらい―。遠藤周作「沈黙」の、そんなくだりを思い起こしながら、元日の午後を過ごした。
病気見舞いも兼ねて息子一家が2年ぶりに帰省した。再会や孫の成長を慌ただしく喜び、夜更かしの正月はすぐに終わり元日にはお別れ。コロナ以外に雪という敵もいた。一行が新千歳空港の大量欠航に巻き込まれたと知ったのは午後3時すぎ。
4時すぎになり家人のスマートフォンに「新幹線に乗るため函館へ向かっている。車内混雑のため電話には出られない」とのメール。「機材繰りのため予約便は欠航―」。朝、子どものスマホに航空会社から入った一本のメールがことの始まりだった。なぜ苫小牧に戻る選択をしない。函館に行ったとして切符は買えるのか。座れているか。孫は泣いていないか。食べ物はあるのか。200便以上も欠航したのに情報が少ない。それはそれは狂おしい時間だった。
2日午前0時前に「東京の自宅に到着」のメール。一難は去ったが若夫婦の心配は続く。新型コロナの第6波が到来した。自分はといえば、新幹線が空路の代替になりつつあることも知らず、大昔の苫小牧―東京間の特急所要時間が頭から離れなかった。今は情報入手だけでなく切符の購入や解約もスマホで行える時代なのに。情報不足の主因は自分の頑迷なのか。「もうスマホに変えない?」。子どもの言葉が胸に刺さった正月。(水)















