責任

責任

 東京に住んでいる孫の小学校入学式があり、家人のスマートフォンに数枚の写真が届いた。おいの長男も入学。めでたい出費が続いた。

 ランドセルは2人とも黒。式の当日、重さに耐えられず玄関であおむけに転んだという騒動に大笑いした。孫は照れ症が進行中らしく、式の看板の前で奇妙に顔をゆがめて笑いを誘う。式の後は学級に分かれて教科書などの配布が行われたようだ。写真のうちの一枚は、机上に並んだ教材類の山。驚いたのはその量の多さだ。とてもランドセル1個には収まらない量。毎日すべてを背負って登校するわけではないが、多い。小柄な新1年生1人での登校なら見送る親はさぞかし心配に違いない。

 「おじいちゃんだって」と、6歳の春を振り返ろうと思ったが、入学式もランドセルの色も記憶はすっかり色あせ、かすんでいた。兄や姉のお下がりが当たり前の時代。選んだとか買ってもらったとか話題になった記憶はない。町の写真屋さんがやってきて集合写真を撮ってくれたはずだが、アルバムは何度目かの転勤の引っ越し以来、どこに行ったものか、見たことがない。当時習ったことで今も覚えているのは掛け算の九九ぐらいか。小学校は炭鉱の閉山で閉校し、校舎も校庭も消えた。散り散りになった同級生の名前も顔も記憶の中から消えていく。

 続くコロナ禍、止まらない戦争―。新1年生の笑顔の写真を見ながら、大人の背負っている責任の大きさを考えた。(水)

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