監督在任時の優れた選手を問われ、「フォワードの引木孝夫、黒川秀明、ゴールキーパーの大坪利満」と話したのは桝川順司さんだ。2001年6月の本紙連載企画「先輩たちの物語」の一節にある。
アイスホッケー日本リーグ隆盛期の1970年代に桝川さんは王子製紙チームを指揮した。談話で司令塔役のセンター引木氏を昭和の大横綱、大鵬になぞらえて体の強さとしなやかさを兼備し、瞬時の状況判断ができたと説明。選手の特性を理解した上で生かした眼識の一端がうかがえる。桝川さんは先月13日、病のため83歳で死去した。
選手引退後、コーチ兼マネジャーを経て74~79年に監督を務めた。日本連盟の招請により男子代表をはじめ、高校、大学各年代代表を率いて世界選手権など数々の国際大会に挑み続け、海外の競技事情に精通。この間よくあったテレビの試合全国中継では解説者で活躍した。
平成初頭、日本リーグが外国人補強を禁じて邦人選手だけの戦いが続いていた頃は、海外の選手を再び招くべきだと「開国」を主張。今世紀始まりの頃には欧州にならい、地域社会がトップ層のクラブチームを支える時代の到来に期待していた。
苫小牧東高時代は左腕のエースとして選抜甲子園に出場と、かつて「二刀流」だった野球への愛着も強かった。いつも笑みをたたえている印象で、記者仲間にファンは多かった。生粋の苫小牧っ子スポーツマン列伝の系譜に連なる人だった。(谷)









