生の証言がまた一つ、この世から消えた。苫小牧被爆者友の会の代表を務めた久野剛さんが今年3月、93歳で亡くなった。長崎原爆の語り部を失い、残念でならない。
17歳の時、爆心地から数キロ離れた長崎駅で被爆した。青空に閃光(せんこう)が走り、強烈な熱風が街を襲った。建物の壁に守られて助かったが、一緒にいた友人は息絶えた。見渡せば地獄絵図。辺りは一瞬にして変わり果て、全身焼けただれた人々がうめき声を上げていた。
惨状を知る者の務め―。そうした思いで長く、小中学校や行事で体験を語り、核兵器廃絶を訴えた。戦後日本が平和を保ち続けることができたのは、体験者の悲劇の記憶と証言が大きな力となったからだ。だが、知る人、伝える人が次々と鬼籍に入り、あの時代の風化が危惧される。国民の多くが戦後生まれとなり、不戦の誓いを引き継ぐ努力はより重要性を増す。
久野さんの仏前には、色あせた新聞記事の切り抜きが飾られている。長崎で被爆し死んだ幼い弟を背負い、火葬を待つ少年を捉えた写真の紹介記事だ。遺族が遺品を整理していた際、見つけたという。80代半ばから体調を悪くし、語り部活動はほとんどできなくなったが、原爆の恐ろしさを伝える資料として大事に持っていたものらしい。
大国が仕掛けた戦争で核の脅威が高まる今を、久野さんは天からどう見ているのか。あす9日は長崎原爆の日。77年前、7万人超の命が奪われた。(下)









