「震度7っていうのは、立ち上がれない揺れだった―」。4年前、胆振東部地震に襲われた厚真町と隣のむかわ町穂別などの知人やいとこ宅を見舞って、最大震度の揺れのすさまじさを教えられた。
知人は夜遅くに居間でテレビを見た後うたたねをした。大きな揺れで目が覚めた。午前3時すぎ。起きようとしたが揺れにごろごろと転がされ、起きられなかったそうだ。いとこの家では、おじ夫婦が寝ていた布団の頭の辺りに、たんすの上に載せてあったものが一斉に落ちてきた。「嫁さんを探すのが大変だったゾ」。幸い大きなけがはなく、おじは得意の冗談を言ったが表情はこわばって見えた。
わが家は1982年3月21日朝の浦河沖地震で奇跡のような経験をした。妻は所用で不在。乳児と幼児を自分がどう守るかを試す大きな揺れだった。呼ばれた長男は椅子に座る父の両脚の間にすぐ避難できた。乳飲み子の次男は別室の布団で目覚めふすまの向こうに父の顔を見つけ、笑顔のほふく前進で足元へ到着した。騒乱で気付かなかったが次男の寝ていた布団には和だんすの上段が落ち、たんすの角が下の畳に三角形の深い傷を残していた。もしもう少し次男が眠っていたら―。家族のその後は変わっていたに違いない。この経験は、その後のわが家の地震対策の出発点になった。
胆振東部地震から4年。復興事業は進み、人口が増加に転じた町もある。忘れずに学び、備え、互いを支え続けたい。(水)









