ロシアのウクライナ侵攻が始まってはや8カ月。報道の中に「交渉」という言葉が時に交じる。停戦や和平などの言葉が具体的に聞かれるのはいつになるのだろうか。
言葉は難しい。戦争や紛争に関わる言葉を野球などスポーツ絡みでしか使ったことのない世代。子どもの頃、敗者の生死と直結しないよう戦いにルールや点数を設けたのがスポーツなのだと教えてくれた先生がいた。確かに徒競走も、跳躍や球技の幾つかも戦闘の訓練のようなもので、納得した記憶がある。
日々の報道に反転攻勢や領土奪還、制圧などの言葉が使われる。しかし、それらの言葉の裏で兵士や住民の肉体や精神がむごたらしく破壊されている事実を私たちはどこまで想像できているだろう。テレビのニュース番組で解説者の表情に笑顔のようなものが見えるたび思う。
解放という言葉の尊さも教えられる。開放は戸などが物理的に開け放たれることだが、解放は思想的にも精神的にも解き放たれること。ロシアは時に占領したウクライナの東部や南部を「解放した」と発表するが、違和感がある。戦力や民主主義を装った住民投票で領土と主権を奪うのは侵略、占領なのだ。
今年のノーベル平和賞がベラルーシの1個人とロシア、ウクライナの2団体に贈られることが昨夜発表された。人権の保護活動に取り組む活動家と組織。平和、人権、自由―。学び、追究し続けねばならない価値と言葉の多さを教えられる。(水)









