苫小牧市明徳町の高橋ミチさん(89)は79年前、旧満州(現中国東北地方)で味わった過酷な戦争体験を今も忘れられずにいる。旧ソ連兵を恐れ、山中を逃げ惑い、たくさんの死体を横目に見ながら地面の水をすすり、飢えをしのいだ。父が出征する中、子ども5人を守り抜いた母ハナさん(故人)のすごさを年月がたつにつれ実感。「こんなことはもう二度と、繰り返してほしくない」と語気を強めた。
「ここは戦場になる。すぐ避難しろ」
1945年8月中旬、満州の都市、東満省林口県古城鎮。日本兵が来てそう叫ぶと、50戸ほどの部落に緊張が走った。
高橋さんはハナさんの三女で、当時10歳。5年前に一家で日高を離れ、満州の開拓民として入植したがその号令から数日で、開拓民約200人が一斉避難を開始した。
父をはじめとする成人男性の大半が召集され、残っていたのは年寄りや女性、子どもばかり。高橋さんはどこに向かうのかも分からず、最初はすぐに戻れると思っていたが、野宿しながらひたすら山中を移動する生活は約1カ月に及んだ。
歩き過ぎて、靴が壊れてもはだしで必死に前進。戦車の音が聞こえると息を殺し、身を隠した。ようやくたどり着いたある駅で「列車が動かない」と告げられ、いったん山中に引き返すと間もなくして、敵機が落とした爆弾で駅は火の海になった。
脚などの肉がえぐれた兵隊が、そこから逃げて来る光景は「脳裏に焼き付いている」と高橋さん。死と隣り合わせの毎日だった。
山中ではおびただしい数の亡きがらを目にした。ハナさんに「お父さんがいないか見てきてほしい」と頼まれ、2番目の姉と一緒に探し回った末、「いなかったよ」と伝えた時、見せた安堵(あんど)の表情も忘れられない。
常に空腹で喉が渇き、水たまりを見つけるときょうだいで駆け寄り、うつぶせになって腹いっぱい飲んだ。顔を上げると、水に漬かる馬の死骸や人の死体が目に飛び込んできたが極限状態で「だしが出ていたからおいしかったんだ」と思ったのを覚えている。不思議と誰も腹を下さなかった。
母親が子ども5人を連れて逃げる行為を責められた記憶がある。幼子は足手まといと考えるのが当然の風潮だった。実際、わが子に手を掛けた大人たちも目にしたが、ハナさんは「この子たちは物分かりがいいから」などと必死に守ってくれたという。
それでも体力、気力とも限界に達し、2歳離れた弟が「うちに帰ろうよ」と泣き出した。ハナさんが父から託された劇薬を出し、「ここで死ぬか」と子どもたちに問い掛けた。沈黙が漂う中、ハナさんにおんぶされていた当時3歳の妹が「死ぬのやだな」と口にした。
ハナさんが「こんな小さな子が死ぬのは嫌だって言っている。頑張れないかい」と励ますと、皆でもう少し頑張ろうという気持ちになれた。「あの言葉がなかったら今、生きていない」としみじみと語る。
2000年11月、苫小牧民報紙上でそんな母の半生が記事として取り上げられた。母は取材を受けた時86歳だったが、高橋さんは8月1日で89歳になった。
「記事を読むと改めて母への感謝の気持ちでいっぱいになる。母は平和を大切に―という思いで語ったんだと思う。私も同じ気持ち」。今でも何か大きな音がするだけで、あの頃の記憶が鮮明によみがえる。戦争の悲劇を二度と繰り返さないように、自身や母の体験を本などに残し、次世代に一人でも多く伝えたいと願っている。



















