連日、報道される児童虐待事件と自身の経験を重ね合わせ、心を痛めている男性がいる。苫小牧市日新町で、塗装や土木工事の会社を営む南悠太さん(32)。小学生の頃、保護者に養育放棄され、つらい日々を送った。「子どもは自分からSOSを出さない。地域の大人が関心を寄せなければ」と、子ども食堂の支援活動を始めた。
小売業の会社に勤める父と飲食店で働く母の第1子として市内で誕生。その後、5人のきょうだいが生まれ、にぎやかな家庭の中で伸び伸び育った。
歯車が狂い始めたのは、小学校2年生の時。会社の経営不振で父が解雇され、生活が一変した。真面目だった父はギャンブルにのめり込み、母の収入も使い果たして借金を重ねた。取り立てから逃れるため、一家で住む場所を転々とした。
引っ越ししても公共料金の支払いはできず、ライフラインはすべて止まったまま。公園で水をくみ、カセットこんろで調理し、100円ショップで買った小さなライトで明かりを確保する生活。母は次第に心を病み、外に出たまま何日も帰らないことが増えた。父も現実から逃れたかったのか、実家に入りびたるように。家には小学校低学年だった自分と、幼いきょうだいだけが取り残された。
ストーブがない中での冬の寒さも、ボロボロの衣類もつらかったが、一番の問題は食べ物がないこと。学校給食をこっそりと持ち帰ってきょうだいに与え、
野草も取って食べるなどし飢えをしのいだ。
給食のない夏、冬休みは特に深刻で、飲まず食わずの日が続いたことも。異変に気付いた近所の人が野菜を分けてくれたり、「ご飯食べさせてあげるからおいで」と声を掛けてくれたりするのが本当にありがたかった。
それでも、自分から周りの大人にSOSを出すことはなかった。子どもながらに「本当のことを言ったら親と引き離されてしまう」と悟っていたからで誰かから通報を受けた児童相談所の職員が聴き取りに来た際も、何も言わなかった。
そんな生活が3年ほど続いたある日、限界が訪れた。極度の栄養不良で幼いきょうだいがピクリとも動かなくなった。「このままではみんな死んでしまう」。重い体を引きずって1時間以上歩いて母の実家を訪ね、助けを求めた。
骨と皮だけの孫に祖父母は驚き、母を問いただして事態が発覚。祖父母の介入できょうだい全員が命の危機を脱し、生活環境も改善した。
つらい経験をばねに必死で勉強し、一級土木施工管理技士補など国家資格を取得。家庭も築き、忙しくも充実した日々に「あの過去があるから、今の自分がある」とも思えるようになった。それでも、おいしそうにご飯を食べるわが子を見るたびに、「両親は何で自分にあんなことができたのか」と思うこともある。
今自分にできることをしよう―と市内の異業種交流団体・水越会に所属し、今年市内の子ども食堂の支援活動に参加した。「無関心社会と言われているが、大人が周りの子どもに優しい目を向けられる社会になれば」。近所の大人たちの優しさに少しだけ心が救われた過去を思い出し、そう語った。
















