江戸時代、勇払は北前船が立ち寄る港であり、ユウフツ(勇払)越えと言われていた太平洋と日本海をつなぐ交通の要所でもあった。
1799年、江戸幕府はロシアなど外国の接近を不安視し、蝦夷地(現在の北海道および周辺地域)を直轄地とした。「運上屋」と呼ばれるアイヌ民族との交易所を「会所」と改め、幕府の役人を置き公務を行う場所としての機能も持たせた。これが勇払会所の始まりだ。
1800年、八王子千人同心が移住し、警備と開墾に当たった。04年には会所は建て替えられ、周囲には米、塩、網、産物などを納める板蔵、大工、鍛冶などの作業小屋、通行人などの下宿所、船乗りが信仰する弁天、稲荷などが立ち並ぶ大きな集落となった。
当時の産物はサメ、シイタケ、魚油、干鮭(からさけ)秋味(サケ)。これらは和人が本州から持ち込む米、酒、たばこ、漆器、着物などとの交易品となった。
要所の移動が衰退の要因
1855年ごろには会所は改築によりさらに拡大し、勇払は盛んなイワシ漁によってイワシの〆粕(肥料)の重要な運搬拠点としてにぎわっていた。苫小牧市美術博物館学芸員の佐藤麻莉さんは「勇払会所の跡はこの地域が交通、交易、行政の重要な場所だったことを伝える貴重な史跡」と語る。
1873年、札幌新道の開通などで交通の要所が勇払から苫細(苫小牧)に移った。また、開拓使出張所が苫細へ移転したことで、繁栄の時代は終わりを告げた。
(通信員 山田みえこ)
【メモ】
1956年3月10日指定
所在地…苫小牧市勇払50の4、12
管理者…苫小牧市教育委員会



















