50年前の札幌冬季五輪でボブスレーの強化選手として代表最終選考に残りながら、けがで五輪出場を逃し、涙をのんだ人がいる。苫小牧市双葉町の元ダンススクール代表青木憲隆さん(79)。「ボブスレーは青春」と語り、4日開幕の北京冬季五輪での競技に熱視線を送る。
1970年2月、札幌市の手稲山ボブスレー競技場で開かれた「第4回全日本ボブスレー競技選手権大会」に当時27歳で出場した青木さんは、選手代表として宣誓を任されるなど期待を集めていた。当時は、森永牛乳札幌販売(現森永乳業販売)の社員。営業と配達をしながら社交ダンスやボディービルにも打ち込み、身体を鍛え抜いた。
競技を始めたきっかけは、67年ごろ、新聞紙上で参加者を集めていた選手発掘企画で、ボブスレー経験者の会社の同僚からの声掛けで応募。「体格を見込まれたのだと思う。五輪出場には夢があり、胸が躍った」と懐かしむ。市内の三角山を拠点にしたチーム「三角クラブ」に入り、19~28歳のメンバーで練習が始まった。
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青木さんが臨んだ2人乗り競技は、そりのハンドルを操作するパイロットと後ろに乗るブレーカーで実施。ブレーカーはパイロットが乗ったそりを押してスタートダッシュ後、スピードが上がった段階で同乗し、全体のバランスを取る。危険と隣り合わせで「走行中にカーブを曲がり切れず、コースを逸脱してそりごと放り出される事故も多かった」と強調。「50人いた選手は1年で半分以下になった」と言う。
青木さんは当初パイロットだったが「自慢の脚力を生かせる」とブレーカーに転向。69年ごろには五輪代表候補12人の一人に名を連ねた。70年の第4回全日本ボブスレー競技選手権大会では、パイロットの鍔原睦夫さん(当時30歳)とのペアで3位に入賞。札幌五輪出場に王手をかけた。
しかし、悲劇は71年の最後の代表選考レースで起きた。コースの第5カーブを曲がり切れず、鍔原さんがそりから転落。コースを逸脱したそりにしがみ付いていた青木さんは水銀灯の柱に激突し、右の足首にある腓骨にひびが入る重傷を負った。「病院まで見舞いに来てくれた監督の残念そうな顔が忘れられない。期待に応えられない悔しさで涙が止まらなかった」と振り返る。
72年2月の札幌五輪でボブスレー2人乗り競技には、世界各国から21組が出場。日本代表は江刺家進、阿部勝己ペアの15位が最高だった。
北京五輪開幕まで4日。ボブスレー競技は、北京市郊外の延慶国家スライディングセンターで2月13日から最終日の20日まで行われる。国際ボブスレー・スケルトン連盟によると、日本は前回平昌五輪に続き、2大会連続で出場枠を獲得できなかったが、青木さんは「日本人選手は出なくても盛り上がってくれたらうれしい」と北京五輪での競技を楽しみにしている。



















