<28>昭和47年 フェリー就航で本道の表玄関へ 押し寄せたボウリングブーム

ブームのボウリング(昭和47年3月)

 

 年明け早々、新港(東港)に7億6000万円の初年度予算(国費)が付き、景気に弾みを付けた。2月には札幌五輪開催、苫小牧のハイランドはサブリンクだ。苫東開発の用地買収は最終段階を迎え、触発されて土地ブームが起こり、億のカネが飛び交った。港は、フェリー就航で工業港という無骨なイメージを一新し北海道の表玄関のイメージが見え隠れした。公害防止条例も制定。「東胆振広域生活圏」(苫小牧・白老・早来・厚真・鵡川・追分・穂別)が、そろって繁栄を目指す。市の人口は年々5000人ずつも増えているから糸井・錦岡地を10万人の住宅地にする。東町の王子社宅街は解体して再開発。ごみの増加に対応した焼却炉が糸井に完成。早朝マラソン会「ランランクラブ」の誕生や市民サイクリング大会で健康増進を。演劇協会、消防音楽隊も誕生。自然保護協会が発足して勇払原野や美々川の総合調査を開始した。この年の苫小牧は今から見れば虚実が入り交じり、港も勇払原野も街も、沸き立つように忙しい。

 

 ■港の性格を変えるフェリー就航

 

 4月23日早朝、苫小牧港(西港)に日本沿海フェリーの「しれとこ丸」(9800総トン)が入港した。29日から東京港と苫小牧港を定期的に結ぶフェリー第1船であった。初入港の23日には、市民ら700人を乗せて襟裳沖まで周遊し、船内では民謡やダンスの披露、ゲームがサービスされて「ひまを楽しむためにつくられた海のハイウエー」(フェリー会社)の旅を楽しんだ。

 

 9年前の昭和38年4月、この港が迎えた第1船は石炭船であり、以来苫小牧港は石炭積出港、工業港として発展し、流通港、商業港の性格も強めてきた。しかし、それだけでは先が細く、関係者はこのフェリー就航で北海道観光の表玄関としての新たな発展が見込めると期待した。

 

 実際、8月には同航路の第2船として「えりも丸」(9800総トン)が投入され、翌年度(昭和48年度)には太平洋沿海フェリーが苫小牧~仙台~名古屋航路に、シルバーフェリーが苫小牧~八戸航路に就航することが決まり、「函館を抜いて全道一のカーフェリー港になる。来年が勝負」と、関係者は前を見据えた。

 

 ■6社150レーンにぎわう

 

 この年、市民のレジャーはにぎやかであった。前年からボウリングが大流行した。ゴーツとボールを転がし、グワーンとピンを破裂させる。時代の好況を代表するような豪快さ。いや、追われるような忙しい生活のうっぷんを晴らす爽快感か。

 

 苫小牧に初めてボウリング場(須貝ボウリングセンター、8レーン)が姿を見せたのは昭和41年。これが当たって利用者が1日200人で数時間待ち。その後1カ所増え、34レーンに。昭和46年にはTOM(トム)ボウル(36レーン)、苫小牧サニーレーン(50レーン)など大型のボウリング場も営業を開始し、翌47年3月現在で6社150レーンに急成長し、過当競争の心配まで出てきた。

 

 老いも若きもボウリング…という中で、賛否が分かれたのは高校生のボウリング場への出入り。市内高校6校のうち4校が「父母同伴」でなければボウリング場への入場を許可しなかった。理由は「非常に費用がかさむ。授業料を使い込んでしまう恐れがある。大半はボーイフレンド、ガールフレンドと一緒なので非行に走るおそれがある」というのがほとんど。入場を許可している高校でも「親の承諾書、制服着用が必要。午後10時以降や早朝ボウリングは禁止」という条件付き。

 

 この厳しさ、苫小牧はどうも特別だったようで、日高方面では高校生の入場は許可になっていたし、札幌にはボウリングクラブがある高校もあった。苫小牧市青少年課では「実際には多くの高校生がボウリングをしている。ボウリング場で補導したというケースもないので、許可してもいいのでは」と。「各校の一様な意見として『ボウリングのイメージがかなり健全なスポーツとなってきた。ゆくゆくは許可になるのでは』と言っているものの、まだまだ先のようだ」(苫小牧民報、昭和47年3月7日付)

 

 ■わが故郷、心のカワウソ

 

 この年8月、思わぬ騒動が起こった。テレビで「幻のニッポンカワウソ」という番組が放送された後、この年4月に発足した苫小牧自然保護協会に「カワウソを見た」という情報が相次いだのである。「樽前ハイランド付近で見た」「糸井養魚場下流で体長60センチほど、尾が太くて長い薄茶色の動物が水中を泳いでいた」「勇払川で4匹」「美々川下流で」「口無沼で」などと、寄せられた情報は1カ月半で40件を超えた。

 

 かつてカワウソは日本各地にいたが、毛皮取りの乱獲で数が激減し、本州、九州では昭和29年までに絶滅。北海道では昭和30年に斜里川での捕獲が捕獲例の最後。四国では昭和54年以降確認されていない。苫小牧地方でもカワウソが生息していた記録はあるが、昭和前期でその足跡は途絶えていた。しかし、勇払原野を抱える苫小牧地方はカワウソの生息適地であること、過去に生息の記録があること、さらに寄せられる情報の多さから、苫小牧自然保護協会は特別調査班をつくり、カワウソ調査を実施した。カワウソらしい動物の写真、38カ所から採集した糞(ふん)の分析、寄せられた情報に基づいて調べて発見した足跡。紀藤義一さん(公民館長)を中心に詳細な調査が行われたが、結局はカワウソ生存の証拠はなく、野生化したミンクの見間違いではないかということで落ち着いた。

 

 しかし、このカワウソ騒動は「騒動」の二文字だけでは捉え切れない。思えば、大型開発が進む中で郷土の豊かな自然を思い懐かしむ人々の心の表れであった。

 

 

一耕社代表・新沼友啓

 

■「公害のないモデル地区を」と進藤社長 東部開発披露パーティー開催

 

苫小牧東部大規模工業基地開発を担う第3セクター「苫小牧東部開発」(資本金20億円、本社札幌)は、昭和47年7月17日、東京の経団連会館で設立総会を行い、8月4日にはホテルトマコマイで披露パーティーを開いた。重工業地帯の開発計画に公害が心配される中、関係者はあいさつでこぞって「公害のない工業地帯」を強調した。以下は進藤孝二・苫小牧東部開発社長のあいさつ概要。

 

 「美しい国土を守り、高い経済繁栄を図るため第三期北海道総合開発計画のプロジェクト推進の要請に応えたい。特に公害のないモデル地区にし、理想的な都市圏づくりを行い、住民の繁栄と地域経済の発展に寄与したい。東部はわが国のテストケースとなるが、各界各層の意見を聞き、最大限の努力を傾注したい。前途には数々の難問が横たわっているが、公的機関や各界の特段のご協力をお願いしたい」(昭和47年8月5日付「苫小牧民報」)

 

【昭和47年】

 

苫小牧市の世帯数3万5816世帯、人口11万7277人

 

《日本の出来事》

 

残留日本兵の横井庄一氏が帰国

「恥ずかしながら帰って参りました」(2月)/あさま山荘事件(同)新日本プロレス旗揚げ(3月)/高松塚古墳で壁画発見(同)川端康成がガス自殺(4月)/ハイセイコーがデビュー(7月)日中国交正常化(10月)

 

3月 1日  苫小牧市公害防止条例制定

3月31日  糸井の清掃センター(焼却炉設置)完成

3月31日  山陽パルプと国策パルプ工業が合併し山陽国策パルプに

4月 3日  開成中学校開校

4月 7日  苫小牧港・西港のフェリーターミナル施設完成式

4月24日  苫小牧自然保護協会(対馬豊三会長)設立

4月23日  日本沿海フェリーの第1船「しれとこ丸」が苫小牧港に初入港

7月17日  苫小牧東部開発会社創立総会が東京の経団連会館で開催

7月19日  高丘の緑リンク跡地に新設した市営球場の球場開き

8月 1日  若草町新設、東町消える

10月18日 苫小牧市老人福祉センターオープン

11月23日 鶴丸百貨店の増改築完成

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