昭和57年 不況の中、光明は「いすゞ」着工 新駅舎、自由通路で鉄北ににぎわい 大泉市長、5期20年で引退表明 「まちづくりの方向、間違いなかった」

新苫小牧駅舎オープンのテープカット(昭和57年10月1日)

 昭和57(1982)年、3年前の第2次オイルショックによる不況はなお続いていた。大手の企業のすべてが構造不況に陥り、それを象徴的に見せつけたのは日軽金苫小牧工場の大幅な人員削減だった。前年からの減産が3月末には電解炉の一部を除いた休止に至り、6月末までに転勤・希望退職を実施して前年夏には1000人強を数えた工場人員が500人を割った。

 日軽金といえば、現苫(苫小牧港・西港の臨海工業地帯)誘致企業の核であり、これが呼び水となって出光興産北海道製油所など他企業の立地につながった。また、まちづくりの上でも糸井団地(現在のしらかば町、日新町)造成などにつながっていたから、地域全体への影響は大きかった。中小企業はさらに苦しく10月8日、苫小牧市は特定不況地域に指定され、貸付金の償還期間の延長など中小企業向け特別措置が実施された。

 しかし、光明もあった。苫東でのいすゞ自動車北海道工場の着工がそれであり、まちでは新苫小牧駅舎と駅ビルがオープンした。新しい時代の波の中で、王子娯楽場が閉館=写真・年表参照=し、老舗かっぽうの「か免家」や「桜川」が姿を消していく。苫東地域内で縄文時代の大規模な環濠(かんごう)遺跡が発見されたのもこの昭和57年であった。

 ■苫東に「いすゞ」着工

 6月2日、いすゞ自動車北海道工場の着工式が苫東で行われた。昭和48年に進出の意向を表明して以来、実に10年近い。岡本利雄社長がくわ入れし、工場建設がスタートした。

 工場では車両、産業用エンジンを年間30万台生産する計画。第1期では機械加工、組み立て、テストの工程の各施設を270億円を投入して59年2月までに完成させる予定だ。第2期では鋳造、鋳造工程を追加する。望んでいた自動車組み立てまでの一貫生産体制とはならなかったとはいえ、道内で初めての自動車産業が第一歩を踏み出したのだ。

 だが、手放しでは喜べない。自動車産業の広い裾野を視野に、いすゞの苫東進出が決まった段階から道内では「自動車産業にどう参画することができるか」と調査、研究を進めていたのだが、高度で最新の技術、大量生産を要求される自動車産業の実態が分かるにつれて「本道の機械工業レベルではとても対応し切れない」「おいしいところは本州企業に持っていかれる」「道内企業はまず、業界全体のレベルアップを図ることが先決」として、基盤づくりから始めなければならなかった。

 ■縄文時代の環濠遺跡発見

 8月、国家石油備蓄基地予定地にある静川16遺跡で、わが国では初めて、縄文時代の環濠集落遺跡が発見された。

 舌状に北側へ張り出した台地の先端部全体をヒョウタン型に囲うかたちで溝が掘り込まれていた。溝は上部幅2・2~3メートル、底部幅30センチ、深さ1・3~2メートルの鋭角な逆三角形で、延長130メートルの大規模なもので、南、北東、西の3カ所に人が渡れる部分が掘り残されていた。北西側は傾斜のきつい崖となっており、丘陵尾根の平坦部に2基の住居跡がある。また、隣の台地では集落跡が発掘された。

 環濠は、出土した土器片が余市式といわれる土器のものであることから縄文時代中期のものであると断定された。調査を行った苫小牧市教委埋蔵文化財センターの佐藤一夫さんは「環濠を伴う集落の遺構は、本州で弥生時代のものが最も古い。縄文時代で、これだけ明確な環濠の発見例はない」と話した。

 10月には北海道道考古学会が異例の現地説明会を開き、参加者からは現状保存の声が上がった。市教委と苫小牧東部開発会社では、環濠遺跡発掘調査終了後、ただちに火山灰で埋め戻すという異例の応急保存策を行った。市民による保存運動も展開され、同遺跡は昭和62年1月8日、国の文化財に指定された。

 ■新駅舎、自由通路、駅ビル「エスタ」

 10月1日には新しい苫小牧駅舎と鉄道の南北を結ぶ自由通路が、2日には駅ビル・苫小牧エスタがオープンした。駅周辺に三つの大型店が開店しており、苫小牧の商業地図は、「駅前通~一条通」から「駅周辺」へと塗り替えられていった。

 新駅舎は鉄筋コンクリート造り3階建て延べ2200平方メートル、鉄路をまたいで南北を結ぶ自由通路は長さ120メートル、幅6メートル。エスタは鉄筋コンクリート造り3階建て延べ5467平方メートルの商業ビルで、テナントは物販店28店、飲食店8店などが入居、午前10時から午後8時(飲食店は同9時)まで営業する。

 新駅舎の北口新設と自由通路で駅の南北の一体化が進んだ。これまで遅れていた駅北側の整備は一気に進み、市営バスの乗り入れも始まった。鉄北線が17便、通学生専用が6便発着。商業ビルは多くの市民の注目を浴びた。オープン初日は4万5000人、2日目は5万5000人の人出となり「苫小牧によくこれだけの人が居たものだ」と驚かれるほどだった。

 オープン時の騒ぎが落ち着くと、エスタを訪れる買い物客は休日で3000人、平日で1800人ほどとなった。「生鮮食料品やおもちゃ売り場などがないので客層が絞られ、目的買いをする人が多い」との分析。この程度で推移するのではないか、と関係者は予測した。しかし、苫小牧全体では人口30万人を想定しての商業集積計画なのだ。低成長の中、高度成長時代に計画した「入れ物」建設だけがどんどん先行する。にぎわいの底流に不安が潜んでいた。

一耕社代表・新沼友啓

 大泉源郎市長が7月21日、「今期限りでの引退」を表明した。大泉市長は記者会見で次のように語った。

 「苫小牧が進んできた今日までの方向は、決して誤りではない。開発に取り組み、市民の職場を確保していく。単に形の上のまちづくりであってはならず、連帯感のあるまちづくりへの流れは変えるべきではない」「引退は、個人的には前々から考えていた。政策面でも、新しい市長がいきなり庁舎(市役所庁舎改築)をつくれるものではないから、私がつくらねばならぬと前から準備していた」「(市長像は)早く言えば権力の座に着くのだから、絶対に公平で清廉潔白でなければならない。他の圧力に屈しないよう、自分自身が他から突っ込まれないようにすべきだ。苫小牧では大きな事業が行われるため、利権を求めてよそから力がかかるが、これをはねのける強い市長でなければならない」(苫小牧民報、昭和57年7月21日付)

 大泉市長は明治43年12月20日、苫小牧生まれ。北海中学卒、昭和7年に苫小牧町役場入り、同22年に助役。田中正太郎市(町)政を支え同38年、社会党、地区労をバックに市長選に立起し当選。しかし苫東開発以降は、保守、中道に支えられた。市長在任5期。苫小牧市名誉市民(昭和63年)。

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3月7日 苫小牧カーリング協会発足

  21日 丸山小学校閉校式

  25日 石狩川治水計画で千歳川放水路計画発表

4月16日 苫小牧市と日光市が姉妹都市提携に調印 

  20日 苫小牧市西町下水処理場が本格稼働

5月16日 市営陸上競技場が緑ケ丘公園にオープン

  31日 王子娯楽場(大正4年から67年間営業)が最後の興行「さよなら映画会」を終え、閉館

6月2日 いすゞ自動車北海道工場建設の起工式

  29日 苫東コールセンター会社設立。関東以北で最大

8月9日 苫東の石油国家備蓄基地予定地から環濠遺跡発掘

10月1日 新苫小牧駅舎、自由通路完成

  2日 苫小牧駅ビル「エスタ」オープン

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